今回のフィギュアスケート世界選手権は、羽生結弦選手にとって転機となる大会となった。直後のインタビューで彼は「敗けは死も同然」と悔しい表情を見せていたが、後に「かっこいい!これで十代か?!」と相手の強さを清々しく認め、自分ではない直接対決できる好敵手の出現を歓迎している。ここから二人の天才が凌ぎを削る新しい時代が始まる。その瞬間に立ち会えたことを光栄に思う。羽生結弦 観戦記という本題に入る前に、思いついたことを忘れないうちに書き留めておくことにする。
羽生結弦とネイサン・チェンは全く印象が異なり、羽生の演技に一貫して いるのは、濃厚なロマンティシズムである。羽生自身の選曲による今シーズンのプログラムでは特にそれが顕著だった。安っぽい感傷趣味ではない。ジョニー・ ウィアー、ジョン・カリー、そして恐らくギリス・グラストロストーム…と系譜を辿れる系譜があり、フィギュアスケートの成立の背後にはロマンティシズムがあったはずである。方向性として正しく、その最高進化形が羽生結弦であると言えるだろう。
偉業を成し遂げたオリンピックを終えた今シーズン、彼の奥深い一面、ロマンティシズムの体現者、アーティストの本質を発揮できる2つのプログラムを愉しみながら滑って欲しかった。しかし、彼のもう一面の本質であるアスリートの闘志が本質がそれを許すはずもなかった。勝つことへの意思はシーズン前半、テクニックと共にアーティスティックな完成度をも引き上げ、シーズン前半、順調に勝ち進んできたが、グランプリシリーズ、ロステレコム杯で、SPで世界最高得点を更新したものの、FSに向けての練習中に負傷し、今回復活するまで全ての大会を欠場する結果となってしまった。
アーティストの魂とアスリートの闘志。それはフィギュアスケーターなら恐らく誰もが持つ二面性であることは言うまでもないが、羽生結弦の場合は、双方とも強烈で、到達しているレベル、挑戦するレベルがあまりに高いためか、一種の危うさが漂う。一瞬の迷いや失調で微妙な均衡が崩壊したら、彼自身を滅ぼしてしまうようなことが惨事に到らないだろうかという危機感を感じてしまうのはファンの老婆心に過ぎないのかも知れないが。今回も含め、というを度々苦しめてきた怪我はその予感が的中した結果とは断言できないが、羽生の演技には一種の悲劇感が漂う。それもまた彼の魅力であり、悲劇感を帯びてロマンティシズムの美も凄絶な高まりを見せる。もちろん、ファンとして、彼には悲劇のヒーローではなく、真のチャンピオンとなって欲しいと願ってやまない。
本題に入れないまま、一旦筆を休めることにするが、今シーズンの羽生結弦のSP「秋によせて」はトリノ・オリンピックでジョニー・ウィアーがFSを滑った曲、そしてFS「Origin」はエフゲニー・プルシェンコが旧採点法で芸術点オール満点を叩き出した名プログラム「ニジンスキーに捧ぐ」に用いた曲がテーマとなっている。敬愛する先輩スケーターへオマージュを捧げつつ、自らの原点に立ち戻る演技に挑んだと聞く。ウィアーとプルシェンコのプログラムについては筆者が以前発表した論文でも取り上げており、羽生が彼らの継承者であると自覚していることを嬉しく思い、(チケットを獲得して)会場へ応援に駆け付けた次第である。 (つづく)
