羽生結弦 SP「秋によせて」

世界フィギュア 2019 観戦記4

羽生結弦の演技に溢れるロマンティシズムについて触れたが、今シーズンのSP「Otonal秋によせて)」はその極致とも言え、本来の意味のロマン主義に通じるものもある。アルゼンチン生まれのピアニスト、ラウル・ディ・ブラジオ作曲のこの曲は、イージーリスニング等に属する現代曲であるが、19世紀ロマン派のピアノ曲やオペラアリアを思わせる抒情的な情熱に溢れている。恐らく今大会において、またフィギュアスケート史上、最も抒情的な曲と言えるかも知れない。ロマン派音楽の演奏においても共通することであるが、感情表現を芸術の域に高めるには様式感と高度な技量が必要である。

ジョニー・ウィアーが2004~2006年にFSにこの曲を用い、全米選手権やNHK杯で優勝するなど好成績を収めているが、確かなスケーティングやダイナミックなジャンプやステップで魅了しながらも、男子スケーターがこの曲が象徴する通りの感傷的な演技を行うこと自体が新鮮であり、SP「The Swan」と並んで世界に衝撃を与えた。羽生結弦も幼い頃、彼のエモーショナルな演技を観て強烈な印象を抱いた一人だったらしく、今シーズン、自分の源を見つめるプログラムの一つとして自ら選曲したという。ウィアーにとってはトリノオリンピックでSP 2位とリードしながらメダルを逃す出来に終わってしまった悲劇のプログラムでもあったが、羽生のロステレコム杯での世界最高得点を更新する名演技で間接的ながらリベンジされた。

さて、3月22日、男子シングルSP(ショートプログラム)。羽生結弦の滑走順は最終グループのトップ。日本人選手は女子も含めて実力を発揮できぬ結果となっており、第3グループに登場した田中刑事もファーストジャンプを失敗していた。公式練習で何度も4回転ジャンプを成功させている羽生にオーディエンスの期待も高まり、6分間練習では盛大な拍手と声援があがった。羽生は(第一滑走者なのに)6分間練習の終了間際にも4回転を見せ、ファンを喜ばせてくれた。
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哀愁に満ちたピアノ曲が始まり、化粧品の広告ビジュアルに採用された優美なポーズで「秋によせて」の演技が始まった。ウィアーのレースをあしらった自身のデザインのものとは異なるが、同じブルー系にシルバーのスパンコールが輝く衣装は、スレンダーなシルエットや柔軟性と敏捷さを合わせもつ動きに少年らしさが残る羽生によく似合っている。指先まで魂のこもった手に導かれ、羽生の世界へ惹き込まれる。今大会において手に注目させる選手は女子も含めて羽生結弦とジェイソン・ブラウンだけだった。演技をスポーツを超えた芸術の域へと高めるのは、エレガントなこの手の魔法なのかもしれない。手の表現力の高さは、今回オマージュを捧げるジョニー・ウィアーとプルシェンコにも共通する。

多くの観客の期待がかかったファーストジャンプ4Sは予定が2Sになってしまい、SPでは規定により無得点。しかし転倒もなく、そのまま流れるように演技は継続した。4Sは羽生にとってはミスを防ぎ完成度を上げるための安全策として選択されることが多く、珍しい失敗であった。この失敗により、ロステレコム杯では14点を叩き出していたファーストジャンプが0点となり、苦しい闘いを強いられる展開に羽生は自らを追い込んでしまった。しかし、セカンドジャンプの3Aをバックカウンターから難しい入り方で成功させ、GOE+4と+5が並ぶ完成度で成功させた。着地後に続く連続ターンは、装飾音符のように調和した流れを見せ、音楽と一体化していた。続いて、最大の得点源である4T+3Tにも極めて自然な流れで入り、3Tで両手を上げる華麗な跳躍を見せた。
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演技後半も全てのエレメントにおいてレベル4を獲得し、全体が繊細な芸術作品に仕上げられていた。コンビネーションスピンに組み込まれた2種類のパンケーキスピン(両手を翼のように上げるタイプと、脚の中に入れるタイプ)はウィアーが「The Swan」などで見せた白鳥の姿そのもののような動きとフォルムになっている。このスピンをスワン・スピンと呼ぶことを筆者は以前から提唱しているが、ビールマン・スピンを封印した後、羽生の新たなトレードマークとなっている。最大のクライマックスであるステップシークエンスでも高速のターンを多用する迫力ある動きを見せ、翼を広げて着水する白鳥を想起させるハイドロブレーディングで観客を魅了した。

最後のエレメントであるスワン・スピンもレベル4で完成させ、最初のポーズに戻って演技を終了。もの悲しいまでの余韻が残った。純粋に美や芸術を追究していく者の抱える悲劇感、繊細な感情の流れの悲劇性を孕んだ美しさそのものを表現した作品であると感じた。そして、それを貫き通す意思と情熱の美しさ。そして、日々成長し進化していく羽生結弦にとって、この種の美少年的な純粋さや繊細さが際立つプログラムはこれが最後かも知れないという寂しさを感じつつ、羽生結弦の美しい瞬間をこの目で見届けることができたという幸福感を噛みしめ、筆者もスタンディングオベーションを捧げた。

他の選手については後述するが、SPを終え、羽生は3位という結果であった。ネイサン・チェンは羽生のロステレコム杯で達成した世界最高得点には及ばないものの大きくリードしており、また翌日、女子シングルでは日本選手全員がメダルを逃す結果となり、「奇跡の」逆転が期待される重圧の中、羽生はFSを迎えることとなった。(つづく)

ジョニー・ウィアーの「Otonal」については ↓こちら↓ を参考

フィギュアスケート男子シングルにみるジェンダー・クロッシング ー21世紀初頭のオリンピックにおけるパフォーマンスからー」 相原 夕佳

 

2件のコメント

  1. ご指摘ありがとうございます。ロステレコム 杯のインタビューで「僕自身が憧れていたプログラムを振り付けしてくださったタチアナ・タラソワさんが」見てくれたと語っていたので誤解していました。ジョニー・ウィアーのプログラムをということだったのですね。訂正致します。

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